扇子・うちわのQ&A
当組合にお寄せいただく扇子・団扇のギモンにお答えします!
扇子とうちわの構造と各名称が知りたい
京扇子の素材は、大きく竹と紙の部分に分けられ、特に竹の部分を扇子の“骨”として「扇骨(せんこつ)」と呼びます。
その扇骨も、両サイドの一番外側に位置する太い骨を「親骨(おやぼね)」、中の細い骨を「中骨(なかぼね)」と呼びます。
また、扇骨を束ねるために打たれている軸の部分を「要(かなめ)」といい、現在はプラスチック素材や金属などがありますが、昔は鯨のヒゲで作られておりました。
京うちわも京扇子と同じく、地紙に入っている竹の部分を「骨(ほね)」と呼びます。
扇子屋さんが使う「~すん~ぶ、~けん」とはどういう意味でしょう?
扇子の長さを尺貫法の「~寸(すん)~分(ぶ)」と測り、扇骨の本数を「~間(けん)」と数えます。
例えば一般的な袴用の白扇は、長さ約27㎝・扇骨の本数は11本になります。
これを言い換えると、1寸は約3㎝なので、「9寸11間」となります。(ちなみに1分は0,1寸なので約3㎜です。)
扇子の種類によって規格サイズは様々なので、お手持ちの扇子などをお調べになるのもたのしいかと思います。
絵付けや投扇興などの体験はありますか?
組合では、組合所属の伝統工芸士や組合青年部部員を中心に、小学校での学校教育や京都府との婚活イベントなど、京扇子・京うちわ振興のために様々な事業に取り組んでおります。その際に扇面絵付けや仕立て体験、投扇興の体験などを行っております。
また、京扇子・京うちわ販売店などで各種体験を実施している事業者もおりますので、個別の内容につきましては、本ページのお店ご紹介より個々にお問い合わせください。
扇塚とは何ですか?
平安時代の京都で生まれた「扇」のルーツを顕彰する目的で、昭和35年に建立された石碑になります。
所在地は京都市下京区の五条大橋の西北詰。
石碑と共に、次のような由緒書きがございます。
扇塚の記
扇は平安時代の初期この地に初めてつくられたものである
ここ五條大橋の畔は時宗御影堂の遺趾であり平敦盛没後その室本寺祐寛上人によって得度し蓮華院尼と称し寺僧と共に扇を作ったと言い伝えられている
この由緒により扇工この地に集り永く扇の名産地として広く海外にまでも宣伝されるように至ったいまこの由来を記してこれを顕彰する
昭和三十五年三月十五日
京都市長 高山義三
この場所は、そのむかし「御影堂扇」がつくられたところになります。
御影堂とは1284年(弘安7)大橋の近くに建立された新善光寺の別称で、「御影堂扇」はこの寺から出た扇子を意味します。
詳しい由来としては…
ここには、新善光寺(しんぜんこうじ)というお寺がありました。
長野の善光寺を模した本尊を安置していたので「新善光寺」と呼ばれましたが、後に嵯峨天皇の御影を安置したため、一般に「御影堂」と呼ばれるようになります。その後、由緒書きにあるように、平安時代「一ノ谷の戦い」にて17歳という若さで亡くなった「平敦盛」の妻が、夫の菩提を弔うために御影堂で
「蓮華院尼」として出家し、寺の僧たちと一緒に扇子を作ったのだそうです。その扇は女性が正装の際に手に持つ扇で「阿古女扇(あこめおうぎ)」と呼ばれました。その後、御影堂扇として有名になり、それ以来この界隈に扇工が集まり、多くの京扇子が作られていきました。
扇子やうちわの記念日はありますか?
5月1日「恋の日、扇子・うちわの日」がございます。
平安王朝の時代、5月1日(旧暦4月1日)は宮中で『給扇の儀』が執り行われる日でした。
それは夏の到来に備え、帝から内侍に柳筥に納めた夏扇を賜るというものでした。
また日本文学の代表的 “恋” 物語として紫式部の『源氏物語』があり、愛し合う男女が互いの扇を贈り合い、将来を約束する文化が描かれております。
その文化は今でも結納の「末廣取り交わし」として続いています。そのことから5月1日を「5(こ)1(い)」と読んで、「恋」の語呂合わせにもなっています。
さらに、西欧では春の訪れを告げる5月は大いなる喜びの月であり、春の風が幸せを運ぶといわれています。メンデルスゾーンの『5月のそよ風』の美しく爽やかなメロディーや、シューマンの歌曲集『詩人の恋』冒頭を飾る『美しき5月に』の唱歌を筆頭に、多くのクラシックからもその歓喜と美しさが伝わってまいります。
それぞれの伝承や連想を元に、当組合にて平成2年に5月1日を「恋の日、扇子・うちわの日」として制定致しました。